関ヶ原の合戦を演出した小早川秀秋 -4ページ目

【小説:小早川秀秋】秀吉を呪う

 天正十九年(一五九一年)八月五日
 わずか三歳で病死した鶴松丸は東福寺に移
された。あわれな老木のように打ちのめされ
た秀吉の脳裏に利休が書いた辞世の句がよぎっ
た。

 人生七十(年) りきいきとつ
 わがこの寶(宝)剣 租佛(仏)共に殺す
 ひっさぐるわが得具足の一太刀
 今この時ぞ天になげうつ

 信長よ、私は七十年の人生だったぞ、ざま 
あみろ

 私のこの茶器の価値に 信長は幻惑され、
やがて神仏を崇めず、自らが神のごとき振る
舞いをし始めた(これは秀吉も同じだ)

 だから私が茶の湯で得た情報を駆使して信
長を一撃で死に誘う(それは秀吉に天下を取
らせた)

 今、私が死んだとしても、他にこのこと
(秀吉の共謀)を知っている者が秀吉を苦し
めるだろう

 秀吉はこのように解釈していたが、しかし
信長暗殺に関して、誰が真相を知っていよう
と天下人になった秀吉には、もはやなんの脅
しにもならない。そこで別の解釈が浮かんで
きた。

 わしは七十年生きたぞ、どうじゃ
 わしの刃は誰だろうと切り捨てる
 受けてみよ、わしの会心の一撃を
 今から死んで天下人、秀吉を呪う

 秀吉は鶴松丸の死でそう思うようになって
いた。そして利休に対する怒りが前にもまし
てわいた。それは新たな天下取りの野望を呼
び起こした。
 翌日、秀吉は諸大名に朝鮮への出兵準備命
令を発した。これには皆、耳を疑った。
 何をもって兵を出すというのか大義名分が
ない。
 はるか昔、朝鮮の南端には任那(ミマナ)
という国があり日本府が置かれていたが朝鮮
での戦国時代に滅亡したといわれている。そ
れを今になって取り戻そうというのも無理が
ある。
 これは明らかに領地拡大のための侵略行為
だった。しかし今は秀吉を諌められる者がい
なかった。弟の秀長がいたら止められたもの
をと皆、落胆した。
 五奉行は秀吉が唯一話を聞きそうな北政所
に説得を願い出た。
 北政所は少し考えて「頃合いをみて話す」
とだけ言った。今すぐ話をすれば鶴松丸を死
に追いやったのは淀を側室にしたことを恨ん
でいる者と、ありもしないことを勘ぐられ、
余計に話がこじれると思ったからだ。

 秀吉は怒りがおさまると冷静に自問した。
(朝鮮出兵をつい口にしたが、これは単なる
思いつきだろうか。いや九州征伐の時、対馬
の宗義智を介して朝鮮王に服従を勧告したが
その返答がなかった。それが心の中にあり、
燃えかすのようにくすぶっていたのかもしれ
ない。しかし今、朝鮮を相手にしていればそ
の隙に異国がこの国を攻めてくるか。もし異
国が攻めてくるとしたら上陸するのは九州。
そうじゃ九州に強固な城を建て、その備えと
しよう。みておれ利休、お前の呪いなど跳ね
返してくれるわ)

 この年の九月には正式に朝鮮への出兵準備
命令がくだされ、十月には加藤清正が奉行と
なり、肥前に名護屋城の築城を始めた。
 十二月に入ってようやく北政所は秀吉に聞
いた。
「身は二つに裂けませぬが、日本と朝鮮のど
ちらにお住みになるので」
 すると秀吉は察したのか、関白を辞任して
朝鮮出兵に専念することにした。それを受け
た後陽成天皇は秀次を関白に任命した。
 いくら望んでも手に入らない関白の座が、
忘れた頃にポンと転がり込んでくる。
(運命とはあっけないものよ)
 秀次はため息をついた。

 肥前・名護屋城はわずか五ヶ月で完成した。
しかしその規模は大坂城に匹敵し、五層七重
の天守、多数の曲輪などを配置した頑強な要
塞であり、秀吉好みの金箔などで装飾された
豪華さも兼ね備えていた。
 城の周りには全国から集まる諸大名のため
に庭園などもある邸宅が建てられ、その数は
百二十棟を超えた。
 十六万人を超える将兵を目当ての店も並び、
各地から商人によって兵糧も運ばれた。
 皮肉にもこれによって戦続きで荒廃してい
た九州全体が急速に復興していった。

【小説:小早川秀秋】藤原惺窩

 秀吉の朱印状で外に出辛くなった秀俊は丹
波亀山城で退屈な日々を送っていた。そうし
たある日、一人の男がやって来た。
 男は名を藤原惺窩といい、歌道で名高い冷
泉家に生まれ、「新古今和歌集」の選者とし
て知られる歌人、藤原定家十二世の孫だった。
 惺窩は八歳の頃から播磨・龍野の景雲寺で
禅宗を学んだが、父と兄が大名の別所長治と
の争いで戦死して生家が没落すると京・相国
寺に入り僧侶となった。
 一時は父兄の仇を討とうと秀吉に訴えたこ
ともあったが叶わず寺に戻ったが、堕落して
いく他の僧侶を見るにつけ仏教の教えにも限
界を感じるようになった。そんな時、儒教に
触れ傾倒するようになり、気がつけば三十歳
となっていた。
 惺窩は明や朝鮮の書物を読みあさる日々の
中で政治にも関心がわき、その学識は石田三
成も教えを請いたいと願うほどだった。それ
を知った秀吉から秀俊の講師となるように命
じられ、丹波亀山城に赴き寄宿することになっ
たのだ。
 秀俊は惺窩がこの頃はまだ珍しい儒学者の
装いをして僧侶らしからぬ風体だったことに
興味がわいた。
 惺窩も巷で噂されている好奇心旺盛な秀俊
に自分の幼い頃を重ね、相通じるものを感じ
ていた。
 惺窩は秀俊に教え諭すということはせず、
自分も学んでいる途中なので、一緒に学ぼう
という姿勢を見せた。そしてもっぱら明に伝
わる物語を話して聞かせるので秀俊も飽きず
に耳を傾け、次第に政治や兵法などにも興味
を示して、惺窩の講義をすぐに理解していっ
た。
 秀吉は秀俊が勉学に励んでいることを知る
と喜び、次々に書物を買い与えた。それは惺
窩の手に入れることのできない貴重な書物で、
これを惺窩も読むことにより、儒学者として
の名声が高まった。

 秀長が病死し利休も自刃した後は、秀次や
浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家、
前田玄以の五奉行とそれに大谷吉継などが秀
吉の補佐をするようになっていた。
 陸奥で一揆が起きるなど混乱はあったが、
民衆も新しい法度に慣れると次第に落ち着い
てきた。
 誰もが戦国の世が終わり、平穏な暮らしが
できると思った。ところが秀吉の嫡男、鶴松
丸が急死して一転、騒然となった。
 秀吉は戦で負けてもこれほどは落ち込まな
かったと、誰もが見たことのないほどの落ち
込みようだった。そうした様子から秀吉の隠
居は確実と思われた。

【小説:小早川秀秋】身代わり

 秀詮の死は病によるものと告げられた。し
かし、その秀詮の遺体のある寝屋にはすでに
秀詮の姿はなかった。
 秀詮は侍医、曲直瀬玄朔の従者の一人に成
り変り、深夜になるのを待って城内から出て
行った。
 寝屋にはすでに用意されていた棺桶が運ば
れた。その中には秀詮と背格好の似た病死の
遺体が納められていた。遺体は数日たったも
のらしく、十月の寒い時期で腐敗が遅いとは
いえ顔がむくんで誰だか判別できない状態だっ
た。
 玄朔の従者がそれを棺桶から出して布団に
くるめ、秀詮の身代わりとした。
 次の日、残っていた家臣らが見守る中、秀
詮の身代わりの遺体が棺桶に納められた。そ
して葬儀はしめやかに行われ、その死は道澄
法親王、近衛信尹(このえのぶただ)などの
公家からも惜しまれた。
 遺体が埋葬される出石郷伊勢宮の満願山成
就寺までの移動中には領民が大勢、沿道をう
め、狂った領主を恨むどころか多くの者が嘆
き悲しんで手を合わせた。
 領民は秀詮の狂ったフリをしている振る舞
いをうすうす感じていたかのようだった。
 秀詮の葬儀が済むと平岡は秀詮に側室や子
がいることなどまったく気づかず、跡継ぎが
いない小早川家が廃絶にならないように養子
を仕立てようとした。
 平岡は秀詮が毒殺ではなくあくまでも病死
したように装い、淡々と後始末をこなしていっ
た。しかし平岡の行動もむなしく秀詮の養子
は認められず小早川家は廃絶となった。だが
養父、小早川隆景には弟の秀包(ひでかね)
がいたので、そちらの小早川家が残り、毛利
一族との約束は果たされた。そして残ってい
た家臣の一部は毛利家に仕官し、それ以外の
家臣もそれぞれの居場所を見つけることがで
きた。
 すべてを整理した平岡は秀詮に最期まで忠
義を貫いたということで家康に高く評価され、
誰にも疑われることなく家康に召抱えられた。
 これで家康の憂いがひとつ消えた。
 それから間もなく小早川秀詮などこの世に
存在しなかったかのように世間から忘れ去ら
れた。

                【小説:羅山】に続く