関ヶ原の合戦を演出した小早川秀秋 -3ページ目

【秀秋と老子】

【秀秋と老子】

1.認知   2.相反するもの   3.争いの素   4.無限のつながり   5.無分別   6.無尽蔵

7.永く保つ秘けつ   8.水形   9.引き際   10.反省   11.空間の利用   12.幻惑

13.感情移入   14.無知無感   15.無垢   16.静観   17.愚鈍   18.結果の本質

19.有効利用   20.判断材料   21.跡継ぎ   22.自然体   23.流体力   24.過剰

25.未知   26.隠れた本質   27.適材適所   28.窪みに宿る   29.無駄な努力

30.手に余るモノ   31.諸刃の刃   32.奇正   33.役目   34.受け身   35.有欲

36.加減   37.独占   38.対人関係   39.目のつけ所   40.軟弱   41.道理   42.二面性

43.女性   44.保持力   45.見極める   46.失敗の備え   47.感性   48.一芸

49.芯を持つ   50.死   51.順序   52.目標   53.苦楽   54.樹を観る   55.幼稚

56.地味   57.簡易   58.放任   59.未完   60.察知   61.分析   62.死生力   63.些細

64.違う視点   65.行動基準   66.指揮   67.三つの貴重なモノ   68.間合い   69.即決

70.周知   71.知識   72.個の集結   73.勇気   74.専門   75.生きる希望   76.変化

77.隠遁   78.不惑   79.仲裁   80.自給自足   81.交渉 終わり

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【織田信長の奇門遁甲】

「黄帝内経」という古代中国の医学書がある。
この医学書は今でも漢方薬や鍼灸の学習書と
して利用されている。その中で「子午流注」
と「霊亀八法」という病気の治療をするのに
効果的な日時を調べる方法が書かれている。
これを利用したのが、三国志で黄巾賊の乱を
指揮した太平道の首領、張角で、庶民の病を
治し信頼を得ていた。
 中国では人体も大地と同じものという考え
方がある。張角は戦術として「霊亀八法」な
どを応用し戦ったとされている。それがやが
て「八門金鎖の陣」として知られるようにな
り、諸葛孔明によって「奇門遁甲」という変
幻自在な戦術として体系化されたと言われて
いる。
 これが後に、城を築城する場所はどこがい
いか、都市の区画はどう整備すればいいか、
家の向きはどちら向きがいいかなどを調べる
風水に発展していく。
 風水は中国が乾燥しやすい環境のため病気
が蔓延しやすい。そこで湿気を部屋に取り込
むため川や池など水の位置が重要になってく
る。この考えを湿気の多い日本にそのまま当
てはめても役に立たない。そもそも置物の色
や位置など運勢とはまったく関係ない。
 以上は、空想の部分もあり、戦術というよ
り占術としてよく知られるようになった。

「奇門遁甲」とは、いつどの方角から相手を
攻めれば勝てるか、また、いつどの方角に相
手をおびき寄せて奇襲すればいいかを調べて
攻略する戦術だとされている。これが実際に
効果があったかどうか分からないが、自分の
都合のいい日時や場所に敵がやって来て、こ
ちらの思い通りに行動してくれるのであれば、
わざわざ「奇門遁甲」を使う必要はないと思
う。
 モンゴルの覇者、チンギス・ハーンは敵と
しばらく戦って、敗走すると見せかけ、伏兵
のいる場所におびき寄せて攻撃した。これを
いちいち占っていては、臨機応変な戦いはで
きず、また自分の勝ち目のない日に敵が奇襲
することもありうる。
「奇門遁甲」を使って負け知らずと言われた
諸葛孔明は、五丈原の戦いで司馬仲達を何度
もおびき出そうとしたが相手にされず、病に
倒れ死亡した。どうも攻撃には使えなかった
ようだ。
 ところが守備にも攻撃にも使える「奇門遁
甲」がある。

 チンギス・ハーンの後世、サマルカンドを
支配したチムールは、それまでの部隊編成が
左翼、中央、右翼の3部隊編成だったのを左
翼前衛、左翼後衛、中央前衛、中央後衛、右
翼前衛、右翼後衛と中央の最後尾に総司令軍
をおく7部隊編成にした。(下図)

         □□□
   □□□ → □□□
          □

 これによって後衛の部隊が自由に移動でき
るようになり、前衛の部隊が相手の動きを封
じ、後衛の部隊が攻めやすい敵部隊に集中し
たり味方を助けに移動することができた。ま
た、チムールは右翼に最強の部隊を当てた。
これは騎馬で矢を射るのに右翼から攻撃する
ほうが都合がいいからで、左翼の部隊が敵の
右翼をおさえている間に、いっきに右翼が攻
めこみ、敵の左翼、中央、右翼を崩していっ
た。

 これを応用して、前衛四方向、後衛四方向
にしたのが下図の八陣図。

     □     ◇   ◇
     □   →  ◇ ◇
   □□*□□     *
     □   ←  ◇ ◇
     □  1  ◇   ◇ 4
          
    ↓ ↑     ↑ ↓

     □    
    ◇ ◇  → ◇ □ ◇
   □ * □    □*□
    ◇ ◇  ← ◇ □ ◇
     □  2        3

 図1と図4は、あえて隙を作ることで敵を
おびき寄せ、後衛の部隊が入ってきた敵の側
面を攻撃し、前衛の部隊が中に入った敵の背
後を攻撃する。
 図2の前衛と後衛は図3のように変わるこ
ともでき、隣り合う部隊はそれぞれ協力して
闘える。

 日本では織田信長が複数の敵を同時に攻撃
する「付城」という戦術を使った。
「付城」は敵の戦闘地域に進軍し、敵を城ま
で徐々に追いつめ籠城させ、その城の周りに
砦をいくつも築き包囲する。(この砦を付城
という)これを各方面に担当司令官を割り当
て同時に行なう。
 そのまま敵の戦力低下や降伏、飢えるのを
待つが、他の場所で決戦があるとき、最低限
の留守部隊を付城に残し、その他の多数の兵
が決戦場に集結し敵を撃破する。
 この戦術が成功するためには、付城に多数
の兵士がいるように見せかけ、部隊をすばや
く決戦場に移動する必要がある。

 付城はあくまでも仮の砦でしかない。

 これを実行していたのが信長の家臣だった
豊臣秀吉であり、明智光秀が本能寺の変を起
こした時、中国地方からすばやく移動したよ
うに見せかけ、天下をものにした。そのノウ
ハウは秀吉の家臣、石田三成にも受け継がれ
ていただろう。

 三成は慶長の朝鮮出兵の最中に秀吉が亡く
なり、戦いを終結させる時、残留している将
兵を速やかに撤退させている。また関ヶ原の
合戦でも事前に松尾山の城を修築させ、徳川
家康の移動を知ると速やかに鶴翼の陣をしい
たあたり、このノウハウを生かしているよう
に思う。ただ家康も本能寺の変の時に伊賀越
えをして逃げ延びたり、小牧・長久手の戦い
で敵の意表をついて現れたりと、このノウハ
ウを熟知し、その上、情報戦を得意としてい
たことが一枚上手だった。

 なおチムールも織田信長も「奇門遁甲」を
意識することなく、実戦で会得しているため、
これが「奇門遁甲」だとする根拠はどこにも
ない。

「奇門遁甲」を正攻法で相手の動きを封じ込
め(あるいはおびき出し)変幻自在な奇襲で
撃破するものだとしたら、チムールや織田信
長は「奇門遁甲」を使っていたと言えるので
はないだろうか。

おわり

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参考文献

鍼灸学講義
中医学院鍼灸教研組編 医林書局出版

八門人相事典
曽川 和翁著 学習研究社

チンギス・ハーン世界帝国の謎
川崎 淳之助著 日本文芸社

家康の天下取り 関ヶ原勝敗の研究
加来 耕三著 日本経済新聞社
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【桃太郎のモデルは小早川秀秋を裏付ける新事実】

 2009年11月8日に放送されたTBS
の番組「オレたち!クイズMAN」で桃太郎
に続編があると話題になっていたので調べて
みた。

 桃太郎の続編は色々あるようで、番組でも
紹介されていた「桃太郎元服姿」は江戸時代
中期の安永8年(1779年)に刊行された
もので、桃太郎が鬼ヶ島で鬼を退治して帰っ
た後、生き残った鬼たちは桃太郎を暗殺しよ
うと鬼の中で最も美しい娘の鬼を桃太郎の家
に召使として送り込んだ。しかし、娘の鬼は
桃太郎と一緒に暮らしているうちに恋心を抱
き暗殺をすることが出来ない。悩んだ娘の鬼
は自ら命を絶ってしまう。それを知った桃太
郎は、これ以降、鬼退治をしなくなった。

 これとは別に安永6年(1777年)に鱗形
屋孫兵衛の版によって刊行された黄表紙「桃
太郎後日噺」(朋誠堂喜三二作、恋川春町画)
というのもあり、桃太郎が鬼ヶ島から帰る時
に白鬼という子供の鬼を家来にして連れて帰
る。家ではお爺さんとお婆さんの他に下女の
お福が出迎える。その後、桃太郎と白鬼は元
服して、白鬼は鬼七と改名し、角を剃り落と
して薬種問屋に二十両で売る。これを知った
猿も元服して猿六と名乗り、下女のお福に恋
心を抱くが、お福は鬼七といい仲になる。そ
れに怒った猿六は、奉公人同士が密通するこ
とが罪になるので、桃太郎に進言する。桃太
郎は鬼七とお福を追放する。そして猿六もお
福に恋心を抱いていたことが分かったので同
罪だとして暇を出す。面白くない猿六は、ちょ
うどやって来た鬼七の許婚、鬼女姫に告げ口
して鬼七のもとへ行かせる。するとお福が怒
り、頭から角が生え、蛇身となり、逃げる鬼
七を追いかける。このことで鬼女姫は鬼七が
お福に殺されたと勘違いして自害。しかし、
鬼七が寺の鐘に隠れている間に桃太郎が犬を
連れてやって来て、お福を斬り倒し、犬は猿
六を殺す。

 私の書いた小説は、これらのことを知って
書いたわけではないが符合する部分がある。

 今、一般的に知られている桃太郎の物語は、
江戸時代中期に岡山でキビ団子が売り出され
た頃、宣伝に使われるようになり統一され広
まったと考えられる。(これ以前は各地に様々
な桃太郎の物語があった)

 この物語の最初にお爺さんが登場し、山に
柴刈りに行くが、お爺さんの役割がはっきり
しない。普通は田畑に行くだろうし、この場
面以降、お爺さんはいてもいなくてもよくな
る。
 初期の物語では百年に一度、実をつける不
老長寿の桃の木を管理するために、お爺さん
は山に行っていたらしい。それがなぜ柴刈り
になったかといえば、豊臣秀吉が以前、羽柴
秀吉と名乗っていたからで、これで柴刈りと
羽柴の「柴」が一致し、どうしてもお爺さん
を登場させて秀吉のことを伝え、桃太郎が何
者かを特定しやすくする必要があったと考え
られる。
 次に、お婆さんは川に洗濯に行くが、秀吉
の正室(おね)は北政所と呼ばれ、政所とは
家事をつかさどった所という意味もあり、洗
濯しているお婆さんとは北政所ではないかと
思われる。
 初期の桃太郎では、お婆さんは熟して落ち
た桃が川から流れてくるのを毎日見張り、よ
うやく流れてきた桃を拾ってお爺さんと一緒
に食べて若返り、それで産まれたのが桃太郎
で「実の子」だった。それが、川から流れて
来た桃から桃太郎が生まれる「養子」になっ
ている。これは小早川秀秋が秀吉と北政所の
養子として育てられたことに一致する。
 成長した桃太郎は初期では「三年寝太郎」
のようにぐうたらな生活をしていたが、突然、
鬼退治に行くと言いだす。これは鬼が村を荒
らすのに村人が困っていたという話もあるが、
唐突な気がする。
 秀秋は秀吉に慶長の朝鮮出兵を命じられた。
それも初陣なのにいきなり総大将としての出
兵で、これに一致する。
 桃太郎はお供として犬、猿、キジと出会い
キビ団子をあたえ家来にするが、秀秋の家臣
は小早川家、豊臣家の者がいて、一説には徳
川家からも監視役として仕えた者がいたとい
うことから、犬は小早川家、猿は豊臣家、キ
ジは徳川家と言えなくもない。
 犬猿の仲というように小早川家と豊臣家の
家臣は最初、仲が悪かっただろう。これら立
場の違うまとまりのない家来を統率するには
キビ団子のような魅力のあるものが必要だっ
た。それが桃源郷のような身分差別のない独
立自治を目指すことだったのではないだろう
か。
 桃太郎の桃は桃源郷の桃とも関係があると
言われている。
 やがて桃太郎は鬼ヶ島に渡る。そして鬼の
砦を攻撃し、鬼退治をするが、秀秋は加藤清
正が蔚山城に籠城して苦戦していたのを救出
に向かい、敵兵を攻撃して武勲をあげる。
 桃太郎は鬼から宝物を奪って帰るが、秀秋
の救出した加藤清正は日本の英雄で国の宝だ。
 秀吉も秀秋の活躍を聞いて最初は喜んでい
た。

「桃太郎元服姿」は関ヶ原の合戦以後、秀秋
が宇喜多秀家の所領していた備前と美作の五
十一万石に移り、荒廃していた岡山城を改築
し、以前の二倍の外堀をわずか二十日間で完
成させたり、検地の実施、寺社の復興、道の
改修、農地の整備などをおこない、急速に近
代化させていった。このことで徳川家康に疎
まれ暗殺されそうになった。秀秋は若くして
謎の死をとげたことになっている。しかし、
難を逃れて生きていることを示唆しているの
ではないだろうか。

「桃太郎後日噺」に登場する下女のお福は、
秀秋の家臣、稲葉正成の妻だった福(後の春
日局)と一致する。
 桃太郎は密通した鬼七とお福を追放するが、
秀秋が晩年に狂いだした時、正成と福は逃亡
している。その後、福は正成が浮気したこと
に怒り、離縁して徳川家光の乳母になったと
いう逸話があり、こうしたことを面白おかし
く物語にすることで桃太郎が秀秋だというこ
とを伝えようとしているのではないだろうか。

 江戸時代になって、秀秋のことには触れて
はいけない状態になったと思われる。そこで、
秀秋のことを桃太郎の物語に託して伝えよう
としていた人達がいたのではないだろうか。
 幕末に長州で倒幕運動に参加した者の中に
は秀秋の家臣の末裔が多くいたと言われてい
る。その討幕運動で亡くなった者を祀るのを
起源とする靖国神社には小早川秀秋の所有し
たと伝わる「三鍬形後立小星兜と紫糸威二枚
胴具足」がある。
 時が経てば英雄あつかいされる武将がいる。
しかし、秀秋は四百年経った現在でも、裏切
り者の汚名が消えないでいる。