【小説:小早川秀秋】藤原惺窩 | 関ヶ原の合戦を演出した小早川秀秋

【小説:小早川秀秋】藤原惺窩

 秀吉の朱印状で外に出辛くなった秀俊は丹
波亀山城で退屈な日々を送っていた。そうし
たある日、一人の男がやって来た。
 男は名を藤原惺窩といい、歌道で名高い冷
泉家に生まれ、「新古今和歌集」の選者とし
て知られる歌人、藤原定家十二世の孫だった。
 惺窩は八歳の頃から播磨・龍野の景雲寺で
禅宗を学んだが、父と兄が大名の別所長治と
の争いで戦死して生家が没落すると京・相国
寺に入り僧侶となった。
 一時は父兄の仇を討とうと秀吉に訴えたこ
ともあったが叶わず寺に戻ったが、堕落して
いく他の僧侶を見るにつけ仏教の教えにも限
界を感じるようになった。そんな時、儒教に
触れ傾倒するようになり、気がつけば三十歳
となっていた。
 惺窩は明や朝鮮の書物を読みあさる日々の
中で政治にも関心がわき、その学識は石田三
成も教えを請いたいと願うほどだった。それ
を知った秀吉から秀俊の講師となるように命
じられ、丹波亀山城に赴き寄宿することになっ
たのだ。
 秀俊は惺窩がこの頃はまだ珍しい儒学者の
装いをして僧侶らしからぬ風体だったことに
興味がわいた。
 惺窩も巷で噂されている好奇心旺盛な秀俊
に自分の幼い頃を重ね、相通じるものを感じ
ていた。
 惺窩は秀俊に教え諭すということはせず、
自分も学んでいる途中なので、一緒に学ぼう
という姿勢を見せた。そしてもっぱら明に伝
わる物語を話して聞かせるので秀俊も飽きず
に耳を傾け、次第に政治や兵法などにも興味
を示して、惺窩の講義をすぐに理解していっ
た。
 秀吉は秀俊が勉学に励んでいることを知る
と喜び、次々に書物を買い与えた。それは惺
窩の手に入れることのできない貴重な書物で、
これを惺窩も読むことにより、儒学者として
の名声が高まった。

 秀長が病死し利休も自刃した後は、秀次や
浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家、
前田玄以の五奉行とそれに大谷吉継などが秀
吉の補佐をするようになっていた。
 陸奥で一揆が起きるなど混乱はあったが、
民衆も新しい法度に慣れると次第に落ち着い
てきた。
 誰もが戦国の世が終わり、平穏な暮らしが
できると思った。ところが秀吉の嫡男、鶴松
丸が急死して一転、騒然となった。
 秀吉は戦で負けてもこれほどは落ち込まな
かったと、誰もが見たことのないほどの落ち
込みようだった。そうした様子から秀吉の隠
居は確実と思われた。