関ヶ原の合戦を演出した小早川秀秋 -6ページ目

【小説:小早川秀秋】秀詮の発狂

 家康は誰もいない居間で、書物を見ながら、
独り言をつぶやいた。
「秀秋を備前と美作に国替えして間もない。
領民の中には前の領主、秀家を慕うものがま
だ多い。行って秀秋は西軍の裏切り者とふれ
まわり、まずは領民を離反させよ。秀秋の家
臣、平岡頼勝はわしが送り込んだ者じゃ。連
絡をとって城内に入り、秀秋に毒を盛れ」
 家康の後ろには床の間があり、掛け軸は家
康が三方ヶ原の戦いに敗れた時に描かせたと
いう頬杖をついた絵が掛けてあった。
「その毒を盛れば発狂する。一度に多く与え
過ぎず、すぐには殺すな。少しずつ与えて発
狂を長引かせるのじゃ。そうすれば世間は秀
秋が西軍を裏切り、三成に祟(たた)られて狂
いだしたと噂を広めてくれる。それがもとで
死ねば誰もわしを疑う者はいないだろう。人
を裏切ると祟られると思えば、徳川家に逆ら
う者もいなくなる。分かったな、行け」
 家康の後ろにある掛け軸が風もないのに揺
れた。
 それからすぐ刺客のひとりが平岡の手引き
で岡山城内に入り、料理番としてしばらくは
秀詮の信頼を得ることに努めた。
 稲葉は新しく入った料理番が以前に徳川家
に仕えていたことは平岡から知らされていて、
なんの疑いも抱かなかった。そのため料理番
は警戒されることもなく秀詮の料理を任され
るようになった。
 秀詮からも信頼を得た頃、料理番は秀詮の
料理に阿片を少しずつ混ぜ始めた。
 この当時、阿片のことは日本ではまったく
知られていなかった。
 家康のもとには関ヶ原の合戦で軍事顧問と
なったウイリアム・アダムスが三浦按針(あ
んじん)の名を与えられて家臣となっていた。
 按針は家康が薬草に詳しいことを知り、当
時では珍しかった阿片が人を狂わせる毒薬だ
ということを教えた。そこで家康は密かに阿
片を入手し、刺客に使わせたのだ。
 秀詮が狂いだしても侍医には原因を調べる
方法もなくどう対処していいか分からない。
ましてや家臣や領民に医学の知識などなく、
秀詮が徐々に異常な行動をし始めると、原因
が分からずただ恐れるばかりだった。
 こんなことがあると人は祟りなどの神がか
り的な力としか考えず、それを疑うこともな
かった。
 料理番は秀詮の発狂が深刻になっていくの
を確認し仲間達を呼んだ。
 しばらくすると秀詮の噂が広まり始めた。
「今度来た新しい殿様が狂いだしたそうな。
なんでも殿様は関ヶ原の合戦で西軍を裏切っ
たとかで、それがもとで死んだ石田三成様が
恨んで祟っているらしいぞ」
 悪い噂は尾ひれが付いて、あっという間に
広がった。
「殿様は阿呆だから西軍と東軍のどっちに味
方したほうがいいか分からんようになって、
家康様が鉄砲を撃つとそれに驚き、味方の西
軍を攻めたらしい。負けた大谷吉継様と石田
三成様はたいそう恨んで死んだそうな。それ
で祟られとるんじゃと」
 しかし秀詮の発狂は芝居だった。秀詮は家
康から備前と美作を与えられた時から警戒し
ていたのだ。
 荒廃していた領地を復興させれば家康から
その能力を警戒される。かといって荒廃した
ままにしておけば処罰する大義名分を与える
ことになる。どちらにしても生きる道はない。
そこで秀詮は藤原惺窩に伝授された帝王学の
教えを実際に試してみることを選び、その結
果、目覚しい復興を遂げたのである。
 このことは惺窩に知らされ、すぐに惺窩は
秀詮のもとを訪れた。
「これほどまでに効果があったとは」
 惺窩は自分の学問の凄さが実証できたこと
を喜んだが反面、秀詮の身の危険を案じた。
しかし秀詮は意に介していなかった。
「どのみち目をつけられるのなら、惺窩先生
の学問が実を結んだことだけでも後世に伝わ
れば本望です」
 秀詮はすでに覚悟を決めていた。しかし、
どうしても護りたいものがあった。
 秀詮と正室、古満との間に世継ぎとなる子
はいなかったが、誰にも知られず囲っている
側室に一男がおり今また、もうひとり身ごもっ
ていたのだ。

【小説:小早川秀秋】領地復興

 近江・佐和山城に三成は近づくこともでき
ず逃亡を続けていた。城には三成の留守を二
千人の兵が死を覚悟して守りぬこうと籠城し
ていた。
 秀秋の部隊は朽木元綱、脇坂安治などの部
隊と共に城壁に迫った。しかし籠城兵の防戦
に死傷者が続出した。
 秀秋の部隊には関ヶ原の合戦が終わった直
後から不穏な動きをする一団があった。それ
は家康から押し付けられた浪人の中にいた家
康の家臣たちだった。その者らのことを秀秋
はうすうす感づいていた。そこでこの時とば
かりにこの一団を先鋒に選び城の石垣を登ら
せ死傷者をだすことになったのだ。
 城は一日では陥落せず、二日目の総攻撃に
抵抗しきれなくなった籠城兵が火を放ち、城
は焼け落ちた。
 やがて逃げていた三成も捕らえられ、さら
し者にされた挙句に六条河原で斬首にされた。
 天下を奪いあう動乱も家康が大坂城に入る
ことで全てが終わった。

 関ヶ原の合戦後の論功行賞で秀秋には備前
と美作の五十一万石が与えられた。
 前の所領、筑前、筑後、肥後の三十万石と
比べれば大幅な加増となったが、備前と美作
は以前の領主、宇喜多秀家が朝鮮出兵に駆り
出されて政務が滞り疲弊していた。
 領民は働く気をなくし田畑に草が茂り、道
はぬかるみ、岡山城でさえ廃城のようになっ
ていた。
 家康はあらかじめ備前と美作が疲弊してい
ることを知っていて、それを餌に秀秋が東軍
に味方すれば与えると約束したのだ。仮に秀
秋が味方し勝利しても備前と美作なら惜しく
はないと考えていた。そしていずれ秀秋が疲
弊した領地をもてあまし、さらに悪化させれ
ば、それを理由に処罰し領地を取り上げるつ
もりでいた。
(小僧が何も知らんで……。お前のものはす
べてわしの手の中じゃ)
 ところが備前に移った秀秋は名を秀詮(ひ
であき)と改め、まず荒廃していた岡山城を
改築し以前の二倍の外堀をわずか二十日間で
完成させた。そして検地の実施、寺社の復興、
道の改修、農地の整備などをおこない、急速
に近代化させていった。これらは秀吉の政策
と藤原惺窩の教えを手本にしていた。
 秀詮は家康の全国支配の中で秀吉の政治を
継承し、惺窩から学んだ独立自治という桃源
郷の実現を目指していたのだ。
 こうした秀詮の動きは家康の耳に逐一入っ
ていた。
 関ヶ原の合戦後、秀詮らの城攻めで半壊し
た伏見城は改築され、家康が移っていた。そ
こで報告を聞いた家康は驚きをとおりこして
恐怖を感じた。
 秀詮の戦での能力は身をもって思い知らさ
れたが、まさか所領を統治する能力まで優れ
ているとは思ってもみなかったからだ。そし
て、真っ先に岡山城に手をつけ防備を固めた
ことは、自分や跡を継ぐ秀忠が全国支配する
うえで最大の障害になることは容易に想像で
きた。
 秀詮は豊臣家と血縁関係者でもあり、将来、
豊臣秀頼と手を組み、豊臣政権再興に担ぎ出
されるかもしれない。すぐにでも討伐したい
がしかし、秀詮は戦功をあげているので、お
おっぴらに殺しては諸大名の忠節心が得られ
なくなる。そもそも秀詮と戦をすれば多大の
損害は免れない。
 いずれ秀頼と戦うことも考えれば、戦力を
使わない方法を選ぶのは自然の成り行きだっ
た。

【小説:小早川秀秋】逆転勝利

 秀秋は大谷隊の崩れていくのを確認すると、
その勢いのまま西軍の島津隊に向かうよう叫
んだ。
「島津を攻めよ。われに続け」
 その途中、稲葉、杉原に合図を送り東軍が
苦戦していた西軍の総大将、宇喜多秀家の部
隊の攻撃へ応援に向かわせた。
 東軍は大谷隊が総崩れになると気勢をあげ
て西軍に襲いかかった。
 火箭の攻撃で苦しめられた島津隊に次々と
東軍の井伊直政、松平忠吉、本多忠勝らの部
隊が押し寄せる。それに混じって小早川隊が
島津隊を包み込んでいった。
 逃げ場を失った島津隊は四方を東軍に囲ま
れ後退することができなくなった。そこで島
津義弘がとっさに叫んだ。
「残った火箭を発射後、突っ込む。全員、後
に続け。発射」
 その声を合図に残った火箭が発射された。
すると火箭は東軍の一隊に飛び込んで炸裂し
た。そこにいた将兵は業火に包まれ、身体に
火がついて逃げ惑い散らばった。その業火に
飛び込むように島津隊が突き進んで逃亡をは
かった。
 秀秋は総大将として参加した朝鮮出兵で、
島津家の進言で所領転封の恥辱をうけたこと
を思い出し、その悔しさから我を忘れて猛追
した。その勢いは誰にも止められなかった。
 秀秋の意志が乗り移ったように小早川隊は
島津隊を執拗に追った。そして秀秋はそのま
ま関ヶ原を退去するように小早川隊に合図を
送った。
 戦では何が起きるか分からない。特に終わ
りかけの混乱で家康が小早川隊を攻撃する可
能性もあったからだ。
 家康の目の前を島津隊がかすめて駆け抜け、
その後からすぐに秀秋を先頭に小早川隊が駆
けていった。
 家康がのけぞりながら叫んだ。
「やつを追え」
 そして後ずさりして尻餅をついた。
 慌てて駆け寄る家臣に家康の号令は聞こえ
ていなかった。
 家康の側にいたアダムスは日本人の戦い方
の多様さに呆然とし恐れさえ感じていた。
 戦場を抜け出た島津義弘の甥、豊久は逃げ
る途中で東軍の部隊に追いつかれ戦って討死
した。そして阿多盛惇は義弘に成りすまし自
刃した。
 島津隊の千五百人の兵が最後まで残ったの
は義弘を含め八十数人という無残な状態だっ
た。
 最初から戦っていた部隊が疲れていたとは
いえ、あれだけこう着状態が続いていた戦い
も、小早川隊が出陣してわずかな時間で東軍
の逆転勝利が決定的になったのだ。

 戦いの余韻が残る関ヶ原。
 三成が逃亡し、誰もいなくなった陣屋は荒
れ果て、つかの間の勝利に沸いた残像が消え
ていった。
 家康は少しとどまり、お茶を飲もうとする
が手が震えて定まらず、やっとのことで飲ん
だ。
(かっ、勝った。これが秀秋に惺窩が伝授し
た兵法か。しかし、それを実践したあの小僧、
恐ろしい奴じゃ)
 家康は合戦後、藤川の高地にあった大谷吉
継の陣屋に移動し、諸大名の拝謁に応じた。
 集まった諸大名は鎧を脱ぎ、酒を浴びるよ
うに飲み、誰もがあわや負け戦からの勝利に
酔いしれていた。
 家康は次から次へと諸大名の祝辞を受け、
それに満面の笑みで応えねぎらった。
「皆、無事でなによりじゃ。皆のおかげで大
勝利することができた。ありがとうな。あり
がとう。ありがとう」
 頭を下げる家康。
 一同は、天下を取った家康に平伏すとまた
騒ぎ出した。
 満足そうな家康だが、目は怒りに満ちてい
た。
 家康は不満だった。戦いに勝利はしたが三
成はまだ逃亡している。なによりも三男の秀
忠がとうとう最後まで間に合わなかった。
 この戦いは後継者に選んだ秀忠の働きで一
気に片をつけ、徳川家の力を思い知らせたう
えで天下に号令しようと企てていたのだ。そ
の段取りが全て狂った。もとはといえば自分
が家臣をせきたてるような発言をして勝利へ
の欲をかきたて、秀忠の到着を待てなかった
のが原因だが、年のせいか気が短くなってい
ることに、この老人は気づいていなかった。
 家康はお祭り騒ぎで気が緩んだ諸大名の姿
を見てため息をついた。そしてよく見ると秀
秋の姿がそこにはなかった。
(そういえば、秀秋はまだ挨拶に来てないが
どこにいるのか)
 家康は家臣を呼んで秀秋を探しに行かせた。
それと入れ替わるように別の家臣が来て、家
康のもとにひざまずいて告げた。
「秀忠様がご到着なさいました」
 家康が今、一番聞きたくない名だった。
「わしは会わん」
 家康の怒りを感じた家臣は一礼して、そっ
とその場を退いた。
 家康は怒りと情けなさに地団駄を踏んだ。
 しばらくすると諸大名がざわつき始めた。
 怒りが少し治まりかけた家康の耳に、諸大
名のざわめきが聞こえ気になって、皆が顔を
向けている方を見て瞬間に表情が凍りついた。
「何じゃ、あれは」
 それは騎馬隊が整然と列を連ねて近づいて
くる様子だった。その数、三百騎。
 騎馬隊の先頭には鎧を身にまとったままの
秀秋がいた。
 皆、一瞬にして酔いが醒め身構えた。
 家康は恐怖で顔が引きつった。
(秀秋が何を……)
 秀秋は騎馬隊を停め、自分一人馬から降り
ると、家康にゆっくり近づいてひざまずいた。
「家康様、まずは合戦の大勝利、おめでとう
ございます。しかしながら、いまだ三成が逃
亡して行方が知れず、その追討と三成の居城、
佐和山城攻めの先鋒をこの秀秋にお申しつけ
ください」
 家康は戦いに遅刻した秀忠や諸大名の気の
緩みとは対照的な秀秋のそつのない態度に涙
を流して感激した。
「秀秋殿、よくぞ申された。よろしく頼む」 
しかし心には不安が渦巻いていた。
(徳川家はいずれ、こいつに滅ぼされる)
 秀秋は一礼して立つとすばやく騎乗し、馬
を走らせた。それに続いて騎馬隊も秀秋を守
るようにつき従い去って行った。
 あ然と見つめるしかない諸大名。
 家康の目が企みの目に変わった。
(あれが我が子ならばのぉ。ほしいことよ。
災いの芽は摘まねばなるまい)