【小説:小早川秀秋】秀吉を呪う | 関ヶ原の合戦を演出した小早川秀秋

【小説:小早川秀秋】秀吉を呪う

 天正十九年(一五九一年)八月五日
 わずか三歳で病死した鶴松丸は東福寺に移
された。あわれな老木のように打ちのめされ
た秀吉の脳裏に利休が書いた辞世の句がよぎっ
た。

 人生七十(年) りきいきとつ
 わがこの寶(宝)剣 租佛(仏)共に殺す
 ひっさぐるわが得具足の一太刀
 今この時ぞ天になげうつ

 信長よ、私は七十年の人生だったぞ、ざま 
あみろ

 私のこの茶器の価値に 信長は幻惑され、
やがて神仏を崇めず、自らが神のごとき振る
舞いをし始めた(これは秀吉も同じだ)

 だから私が茶の湯で得た情報を駆使して信
長を一撃で死に誘う(それは秀吉に天下を取
らせた)

 今、私が死んだとしても、他にこのこと
(秀吉の共謀)を知っている者が秀吉を苦し
めるだろう

 秀吉はこのように解釈していたが、しかし
信長暗殺に関して、誰が真相を知っていよう
と天下人になった秀吉には、もはやなんの脅
しにもならない。そこで別の解釈が浮かんで
きた。

 わしは七十年生きたぞ、どうじゃ
 わしの刃は誰だろうと切り捨てる
 受けてみよ、わしの会心の一撃を
 今から死んで天下人、秀吉を呪う

 秀吉は鶴松丸の死でそう思うようになって
いた。そして利休に対する怒りが前にもまし
てわいた。それは新たな天下取りの野望を呼
び起こした。
 翌日、秀吉は諸大名に朝鮮への出兵準備命
令を発した。これには皆、耳を疑った。
 何をもって兵を出すというのか大義名分が
ない。
 はるか昔、朝鮮の南端には任那(ミマナ)
という国があり日本府が置かれていたが朝鮮
での戦国時代に滅亡したといわれている。そ
れを今になって取り戻そうというのも無理が
ある。
 これは明らかに領地拡大のための侵略行為
だった。しかし今は秀吉を諌められる者がい
なかった。弟の秀長がいたら止められたもの
をと皆、落胆した。
 五奉行は秀吉が唯一話を聞きそうな北政所
に説得を願い出た。
 北政所は少し考えて「頃合いをみて話す」
とだけ言った。今すぐ話をすれば鶴松丸を死
に追いやったのは淀を側室にしたことを恨ん
でいる者と、ありもしないことを勘ぐられ、
余計に話がこじれると思ったからだ。

 秀吉は怒りがおさまると冷静に自問した。
(朝鮮出兵をつい口にしたが、これは単なる
思いつきだろうか。いや九州征伐の時、対馬
の宗義智を介して朝鮮王に服従を勧告したが
その返答がなかった。それが心の中にあり、
燃えかすのようにくすぶっていたのかもしれ
ない。しかし今、朝鮮を相手にしていればそ
の隙に異国がこの国を攻めてくるか。もし異
国が攻めてくるとしたら上陸するのは九州。
そうじゃ九州に強固な城を建て、その備えと
しよう。みておれ利休、お前の呪いなど跳ね
返してくれるわ)

 この年の九月には正式に朝鮮への出兵準備
命令がくだされ、十月には加藤清正が奉行と
なり、肥前に名護屋城の築城を始めた。
 十二月に入ってようやく北政所は秀吉に聞
いた。
「身は二つに裂けませぬが、日本と朝鮮のど
ちらにお住みになるので」
 すると秀吉は察したのか、関白を辞任して
朝鮮出兵に専念することにした。それを受け
た後陽成天皇は秀次を関白に任命した。
 いくら望んでも手に入らない関白の座が、
忘れた頃にポンと転がり込んでくる。
(運命とはあっけないものよ)
 秀次はため息をついた。

 肥前・名護屋城はわずか五ヶ月で完成した。
しかしその規模は大坂城に匹敵し、五層七重
の天守、多数の曲輪などを配置した頑強な要
塞であり、秀吉好みの金箔などで装飾された
豪華さも兼ね備えていた。
 城の周りには全国から集まる諸大名のため
に庭園などもある邸宅が建てられ、その数は
百二十棟を超えた。
 十六万人を超える将兵を目当ての店も並び、
各地から商人によって兵糧も運ばれた。
 皮肉にもこれによって戦続きで荒廃してい
た九州全体が急速に復興していった。