関ヶ原の合戦を演出した小早川秀秋 -7ページ目

【小説:小早川秀秋】吉継自刃

 戦いが始まって四時間が経とうとしていた。
 秀秋は将兵の待機している曲輪に向かい、
戦闘準備をすませてじっと待っていた将兵の
前に立った。
 秀秋に初陣の時のあどけなさはなく、巻狩
りを装った軍事演習で日焼けした顔は野性味
を帯び、威厳さえ漂わせていた。
 身分の違いに関係なく取り立てられた将兵
の顔は皆、高揚していた。
 秀秋が現れるとしばらくざわついていたが、
徐々に静まり返っていった。
 秀秋は将兵の緊張を解きほぐすように静か
に話し始めた。
「大陸の明には桃源郷の物語がある。河で釣
りをしていた漁師が帰る途中、渓谷に迷い込
み、桃林の近くに見知らぬ村を見つけた。そ
こにいた村人は他の国のことは知らず、戦は
なく、自給自足で食うものにも困らない。誰
が上、誰が下と争うこともない。これが桃源
郷だ。太閤も俺も、もとはみんなと同じ百姓
の出。もう身分に縛られるのはごめんだ。親
兄弟、女房、子らが生きたいように生き、飢
えることのない都を皆と一緒に築きたいと思
う。そのために俺はこの身を捨てて戦う」
 秀秋は徐々に強い口調になっていった。
「われらは家康殿に加勢し、大谷隊を正面か
ら討つ。だたし大谷隊の側にいる赤座、小川、
朽木、脇坂は敵ではない。大谷隊を誘い出し
この四隊に背後を突かせる。われらは餌のご
とく、うろたえ逃げまわればいい。時が来る
まで血気にはやって功名を得ようとするな。
天恵を得たければわれに続け」
「おおぅ」
 全員、雄たけびとともに各自の持ち場に散っ
た。
 秀秋は馬に騎乗し空を見上げた。
 いつの間にか空は晴れていた。
(鷹狩りにはもってこいだなぁ)
 機敏に戦闘準備を整えていく小早川隊。
 その頃、戦いがこう着状態になり、圧倒的
な勢力でいまだに勝てないふがいなさに、家
康は落胆の色をみせていた。
「わしの負けじゃ。これで終わったわけでは
ない。もう一度、出直そう」
 家臣たちも皆、自分たちの犯した失策にう
なだれていた。
 一方、三成の陣営では家康の逃亡しそうな
気配が見えると歓声が上がった。
「やった。家康に勝った」
 その時、松尾山から小早川隊がゆっくりと
降りて来るのが見えた。
 御輿に乗った大谷吉継の側で目の代わりを
していた湯浅五郎が叫んだ。
「ああっ、動いた」
 戦場で動こうとしなかった諸大名も小早川
隊が大蛇のように、松尾山から大行列で不気
味にゆっくりと降りてくるのを凝視した。
 戦っていた将兵の中にも気づく者がいて、
一瞬、動きが止まった。
 三成は目を見開き、ただ立ち尽くすだけだっ
た。
 小早川隊は松尾山のふもとに秀秋、稲葉、
杉原、岩見、平岡の小隊ごとに整列して陣形
を整えた。そして稲葉の小隊が先陣をきって
走り出した。
 赤座、小川、朽木、脇坂の四隊は自分達が
攻撃されると思い、逃げ腰で後退りする。
 脇坂が狼狽して叫んだ。
「退け、あ、いや留まれ」
 吉継は湯浅五郎に秀秋の様子を聞くと苦笑
いした。
(やはり攻めて来たか)
 吉継があらかじめ秀秋を説得すれば味方し
たかもしれないがそれでは家康に全ての計画
がばれてしまう恐れがあった。それで打ち明
けることができず、自らが家康に近づいてい
たことが自分を慕う秀秋に影響したのではな
いかと悔やんだ。しかしこうなっては全力で
戦い秀秋を退けるのみと心を鬼にした。
 正面から稲葉の小隊と大谷隊が混じりあう。
 大谷隊の命を賭けた奮戦に対し、稲葉の小
隊は防戦した。
 大谷隊の将兵がうなる。
「ひるむな。突っ込め」
 稲葉が頃合いを見て合図した。
「さがれ、退却」
 稲葉の小隊は後込みしながら逃げる。それ
に勢いづいた大谷隊は一斉に追いすがった。 
その頃、松野の別部隊は森の木々に隠れて大
谷隊の背後に回りこもうとしていた。
 稲葉の小隊が引き下がったのを受けて、杉
原の小隊が押し出す。それを迎え撃つ大谷隊。
 しばらくすると杉原の小隊も弱腰で下がっ
ていく。その様子を聞いた吉継は秀秋の哀れ
を感じた。
(兵の数に頼って正面攻撃をするなど、秀秋
はやはり未熟者であったか)
 岩見の小隊も反撃に加わるが劣勢のまま退
く。それに代わって平岡の小隊が突っ込んで
いった。そして秀秋も後に続いて攻めた。こ
の時、秀秋は面頬をあえて着けなかった。自
分の表情を見てこれが策略だと大谷隊の誰か
に気づいてほしいと思ったからだ。しかし死
にもの狂いの大谷隊の誰一人として策略に感
づく者はいなかった。
 小早川隊の攻撃の仕方に家康は一喜一憂し
た。
「出陣したはいいが、何じゃあれは。なぜ総
攻撃せんのじゃ。あーあ、押されておるでは
ないか。秀秋に期待したわしが愚かじゃった
か」
 小早川隊は一方的に大谷隊に追い回され始
めた。それでもなお大谷隊は小早川隊を攻め
続け、赤座、小川、朽木、脇坂の部隊が背後
になっていることに気づかなかった。
 秀秋は赤座の方に目をやった。
 今まで逃げ腰だった小早川隊が態勢を変え、
横に整列して一枚岩のように踏みとどまった。
その一瞬、時が止まったように静寂に包まれ、
大谷隊は凍りついたように動かなくなった。
 少しの間があって湯浅五郎の「あっ」とい
う声に吉継は異変を感じた。
「何があった」
 この時、赤座は小早川隊の動きに状況がの
みこめ叫んでいた。
「今だ。大谷を攻めよ」
 それに続いて小川、朽木、脇坂の部隊も大
谷隊の背後に襲いかかった。
 吉継は何が起こっているのか、まだ把握で
きなかった。
「何だ」
 大谷隊は背後から崩れるように消滅してい
く。
 秀秋は複雑な気持ちで吉継を見ていた。そ
して情けを断ち切るため面頬を着け、側にい
た従者から槍を受け取った。その槍を高く掲
げて合図をだし、全部隊を大谷隊にぶつけた。
 吉継の乗った御輿は混乱の中から湯浅五郎
の先導できりぬけるのがやっとだった。
「負けたのか。秀秋、どんな手を使った」
 吉継は負けた悔しさよりも秀秋の戦いぶり
に心を揺さぶられた。
(じかに見たかったのぅ)
 そう悔やみながら逃れた吉継は御輿から降
りると自刃して果てた。

【小説:小早川秀秋】西軍の四隊

 こう着状態が続く中でも三成は陣中にどっ
しりとかまえ微動だにしない。対する家康は、
陣中をうろちょろして落ち着きがなかった。
「秀忠はまだか。何で誰も動かん」
 秀秋のもとに家康の使者がやって来て家康
の言葉を伝えた。
「秀忠様はただいま関ヶ原へ向かわれていま
すが到着が遅れております。秀秋殿には疑念
がおありのようですが大殿に二心などありま
せん。秀秋殿にはかねてより備前と美作を奉
ずると申していることに偽りなく、早急のご
出陣をお願い申し上げます」
 しばらくすると家康の内情を探っていた小
早川隊の兵卒が秀秋のもとに戻って告げた。
「徳川秀忠殿は上田城攻めにてこずり、現在
は関ヶ原に向かっていますが悪天候で信濃に
足止めされ、到着が遅れています」
 これで秀忠がいないのは家康の策略ではな
いことがはっきりした。
 秀秋は稲葉正成、杉原重治、松野重元、岩
見重太郎、平岡頼勝を前にして言った。
「秀忠は来ない。今、出陣すればふもとで警
戒している大谷隊と正面からぶつかることに
なる」
 皆は秀秋が大谷吉継を兄のように慕ってい
ることを知っていた。
 稲葉は地形図の駒を指差して話した。
「奥平殿からお聞きしたこちらの脇坂殿、朽
木殿、小川殿、赤座殿は家康殿に内通してい
ますから、大谷隊の注意をこちらに向けさせ
れば側面を攻めるのではないでしょうか」
 秀秋の部隊がいる松尾山のふもとで戦って
いる大谷隊の斜め前方には家康に内通してい
るはずの赤座直保、小川祐忠、朽木元綱、脇
坂安治の四隊が東軍の不意打ちを警戒するフ
リをして待機していた。その中でも赤座は秀
秋が以前、越前・北ノ庄に転封になった頃か
らの知り合いで、小川、朽木、脇坂を説得し
て大谷隊を攻撃する機会を狙っていたが大谷
隊の奮戦と威圧でヘビに睨まれたカエルのよ
うにその場を動くことさえできなかった。
 稲葉の考えに岩見は勇猛な武人らしく反論
する。
「あてにならん。戦で信じられるのは己のみ」 
 秀秋が自分の考えを話した。
「四隊は今のままでは動けないだろう。そこ
で、われらは小隊に分かれ一隊ずつ大谷隊の
正面から攻めと退却を繰り返す。そうすれば
大谷隊はわれらの部隊の統率がとれていない
のは俺の力不足と甘く見て追ってくるはずだ。
これで四隊は大谷隊の背後に位置することに
なり動くかもしれん。仮に動かない時のため
に、われらの別部隊を背後に回り込ませれば
どうだ」
 秀秋は合戦を狩りにおきかえて考えていた。
狩りをする時は獲物を追いかけるより、餌で
誘って仕留めるほうが楽だ。
 吉継にとって秀秋は幼い時の未熟さが印象
に残っているはずだから小隊での正面攻撃と
いう無謀な戦い方をすればあなどり、そこに
油断ができる。これで小早川軍が餌になり、
吉継を思い通りの場所に動かすことで赤座、
小川、朽木、脇坂の四隊に仕留めさせようと
考えたのである。
 話しを聞いていた鉄砲頭の松野の顔色がく
もる。
「これでいいのかの。わしは太閤に顔向けで
きん」
 秀秋は忠義心の強い松野の気持ちを察した。
「松野は態度をはっきり決めることのできな
い輝元殿や無謀な戦をする秀家殿、全てを取
り仕切ることのできない三成殿で天下が治ま
ると思うか。この場に秀頼様を連れてこなけ
れば豊臣家とは無関係のただの殺し合いにし
かならない。その秀頼様を西軍は連れて来る
ことができなかった。それにな、太閤は朝鮮
での過ちを繰り返した。それを俺も、ここに
おる全ての者が太閤を止められなかった。三
成殿や吉継殿には才覚がある。その才覚が太
閤によって間違ったことに使われているのを
知っていたはずだ。それでもどうすることも
できないのなら、その才覚はなんの役にもた
たない。だからこうして豊臣家の家臣だった
者たちが不信感を抱き仲間どうしが争うこと
になったのではないのか」
 松野は唇を噛みしめてうなだれた。
 稲葉、杉原、岩見、平岡も不安がないわけ
ではなかった。
 秀秋は皆の思いを汲んで言った。
「たとえこの戦で家康殿が負けても家康殿は
過ちから学んでまた挑んでくる。再び長い乱
世になればそれこそ民衆の心は豊臣家から離
れ後世に恨みを残すだけだ。今ここで戦を治
め乱世を終わらせる道を選べば太閤の名誉も
保つことができよう。それにわれらの勝ち取っ
た領地で太閤の意思を継ぐこともできるので
はないか」
 皆の目に輝きが戻り深くうなずいた。
 秀秋は立ち上がり力強く命令した。
「稲葉、杉原、岩見、平岡は正面から攻めよ。
松野は大谷隊の背後に回れ」
「はっ」
 一同はすばやく散り、部隊を小隊に振り分
けると、それぞれの小隊のかけ声で城内に気
合が入った。

【小説:小早川秀秋】逃げ道

 南宮山の安国寺恵瓊は優勢のはずの東軍が
劣勢になりかけていたのを好機とみて、毛利
秀元に家康の背後を攻撃するように助言した。
しかし吉川広家は家康と内通していたので、
出陣しようとする秀元を止めていた。この南
宮山の動きが勝敗を大きく左右する鍵になっ
ていた。
 家康も南宮山が気になり始めていた。秀元
がこちらに攻めてくれば東軍に味方している
秀吉恩顧の諸大名もいつ反旗を翻すか分から
ない。そこで本陣を移動することにした。
 毛利の部隊から距離をおく桃配山の中腹に
移動して一旦は留まったが東軍はさらに劣勢
になり、桃配山を下ることにした。そこには
中山道、伊勢街道がある。
 家康はいざという時の逃げ道を確保しよう
としていたのだ。
 家康が本陣を移動していることを知った秀
秋も決断を迫られていた。
 松尾山城を奪い取ったことで秀秋の家臣は
皆、手柄を立て自分たちの役割は終わったと
思いこの時、すでに戦闘意欲をなくしていた
のだ。それを今からどういう理由で皆に死を
覚悟させて戦わせるのか。
 松尾山城のいたる所に小早川隊、一万五千
人の将兵がじっと待機している。
 末端の兵卒はすでに故郷に帰ることで頭が
いっぱいだった。しかし合戦が始まってもな
かなか勝敗が決まらない。兵卒に戦いの駆け
引きなど知るよしもない。それでもこれだけ
長い間、勝敗が決まらなければ自分たちの出
陣もあるのではないかと思うようになってい
た。
 これまで秀秋が領地管理や戦闘訓練などで
示した考え方が兵卒にも浸透していた。やが
て誰に命令されるでもなく皆、自発的に戦う
準備をして、ひたすら秀秋の命令を待った。
 合戦という死を覚悟した異常な興奮状態の
中では本来、逃げ出す者や抜け駆けして功名
を得ようとする者がいてもおかしくない。多
人数の中、数人が勝手な行動をしても分から
ないだろう。
 朝鮮ではどの部隊よりも真っ先に蔚山城に
攻めて行くような戦い方をしていたが、今度
の戦では整然と秀秋の命令を待っている。
 秀秋が優柔不断で愚鈍な若殿様なら補佐を
する家臣がいくら有能でも末端の兵卒を命令
に従わせることは難しい。もっとも、有能な
家臣なら秀秋を言いくるめて出陣させるか、
秀秋を無視して行動し出世の機会をつかもう
とするだろう。稲葉正成は家康に取り入ろう
としていたし、家康から送り込まれた浪人の
中には家康の家臣もいたのだ。
 この時代、愚鈍な殿様に仕える必要はない。
まして命令を聞く気にはならないだろう。
 秀秋と兵卒の身分を越えた強い信頼関係が
なければ今の小早川隊の姿はない。
「待つのも釣りだーね。若様は大物でも釣ろ
うとされとるんじゃろ」
 兵卒のひとりがそうつぶやき、緊張してい
た場を和ませた。
 ただひとり家康の使者で来ていた奥平は、
秀秋がいつまでたっても動こうとしないこと
に、家康の怒っている姿を想像して肝を潰す
思いだった。
「秀秋殿。ご出陣を」
 秀秋は関ヶ原の地形図に手を添えて示し、
奥平を睨(にら)みつけた。
「家康殿はまだ布陣が整ってないのに戦いを
始められた。秀忠殿も来てないではないか。
俺は将兵を無駄死にさせる気はない」
「お恐れながら、西軍には大殿と内応してい
る部隊がおります。秀秋殿のご出陣があれば
それらも動き、必ず勝利します」
「俺より先にその部隊が動かんのはどうして
だ。皆、秀忠殿の兵を家康殿が温存している
と思っている。このままうかつに動けば戦っ
た後、どちらが勝つにしても裏切り者の汚名
をきせられて打ち滅ぼされるかもしれん。ま
ずは秀忠殿がなぜ来ないのかそれをはっきり
させるのが先決であろう」
 秀秋の鋭い洞察に奥平はひるんだ。
「では秀忠殿の所在を調べて参ります」
 奥平はいたたまれず立ち去った。
 それを見た稲葉が秀秋の側に寄りささやい
た。
「よろしいのですか。家康殿に疑われますよ」
「なぁに飢えた獲物はどんな餌にでも食いつ
くものだ。家康には天下をくれてやる。だが
こうして地獄の苦しみを味わえば、助けた者
が小僧でも神仏に見えよう」
 そうは言ったものの、秀秋は地形図を見て
は考え込んだ。
 秀秋はこれまで運命に逆らえなかった。生
まれた時から織田信長の生まれ変わりを演じ
て自我を出すことができず、その上、養子に
次々と出され、居場所を見失うこともあった。
まるでタンポポの種が風に飛ばされて落ち、
その場所がどんな所でも咲かなければならな
いように、与えられた条件を受け入れるしか
なかったのだ。
(どうせ捨てるものは何もない)
 秀忠の部隊が到着して自分の出番がなく、
命が尽きるのもいいと思っていた。