【小説:小早川秀秋】吉継自刃 | 関ヶ原の合戦を演出した小早川秀秋

【小説:小早川秀秋】吉継自刃

 戦いが始まって四時間が経とうとしていた。
 秀秋は将兵の待機している曲輪に向かい、
戦闘準備をすませてじっと待っていた将兵の
前に立った。
 秀秋に初陣の時のあどけなさはなく、巻狩
りを装った軍事演習で日焼けした顔は野性味
を帯び、威厳さえ漂わせていた。
 身分の違いに関係なく取り立てられた将兵
の顔は皆、高揚していた。
 秀秋が現れるとしばらくざわついていたが、
徐々に静まり返っていった。
 秀秋は将兵の緊張を解きほぐすように静か
に話し始めた。
「大陸の明には桃源郷の物語がある。河で釣
りをしていた漁師が帰る途中、渓谷に迷い込
み、桃林の近くに見知らぬ村を見つけた。そ
こにいた村人は他の国のことは知らず、戦は
なく、自給自足で食うものにも困らない。誰
が上、誰が下と争うこともない。これが桃源
郷だ。太閤も俺も、もとはみんなと同じ百姓
の出。もう身分に縛られるのはごめんだ。親
兄弟、女房、子らが生きたいように生き、飢
えることのない都を皆と一緒に築きたいと思
う。そのために俺はこの身を捨てて戦う」
 秀秋は徐々に強い口調になっていった。
「われらは家康殿に加勢し、大谷隊を正面か
ら討つ。だたし大谷隊の側にいる赤座、小川、
朽木、脇坂は敵ではない。大谷隊を誘い出し
この四隊に背後を突かせる。われらは餌のご
とく、うろたえ逃げまわればいい。時が来る
まで血気にはやって功名を得ようとするな。
天恵を得たければわれに続け」
「おおぅ」
 全員、雄たけびとともに各自の持ち場に散っ
た。
 秀秋は馬に騎乗し空を見上げた。
 いつの間にか空は晴れていた。
(鷹狩りにはもってこいだなぁ)
 機敏に戦闘準備を整えていく小早川隊。
 その頃、戦いがこう着状態になり、圧倒的
な勢力でいまだに勝てないふがいなさに、家
康は落胆の色をみせていた。
「わしの負けじゃ。これで終わったわけでは
ない。もう一度、出直そう」
 家臣たちも皆、自分たちの犯した失策にう
なだれていた。
 一方、三成の陣営では家康の逃亡しそうな
気配が見えると歓声が上がった。
「やった。家康に勝った」
 その時、松尾山から小早川隊がゆっくりと
降りて来るのが見えた。
 御輿に乗った大谷吉継の側で目の代わりを
していた湯浅五郎が叫んだ。
「ああっ、動いた」
 戦場で動こうとしなかった諸大名も小早川
隊が大蛇のように、松尾山から大行列で不気
味にゆっくりと降りてくるのを凝視した。
 戦っていた将兵の中にも気づく者がいて、
一瞬、動きが止まった。
 三成は目を見開き、ただ立ち尽くすだけだっ
た。
 小早川隊は松尾山のふもとに秀秋、稲葉、
杉原、岩見、平岡の小隊ごとに整列して陣形
を整えた。そして稲葉の小隊が先陣をきって
走り出した。
 赤座、小川、朽木、脇坂の四隊は自分達が
攻撃されると思い、逃げ腰で後退りする。
 脇坂が狼狽して叫んだ。
「退け、あ、いや留まれ」
 吉継は湯浅五郎に秀秋の様子を聞くと苦笑
いした。
(やはり攻めて来たか)
 吉継があらかじめ秀秋を説得すれば味方し
たかもしれないがそれでは家康に全ての計画
がばれてしまう恐れがあった。それで打ち明
けることができず、自らが家康に近づいてい
たことが自分を慕う秀秋に影響したのではな
いかと悔やんだ。しかしこうなっては全力で
戦い秀秋を退けるのみと心を鬼にした。
 正面から稲葉の小隊と大谷隊が混じりあう。
 大谷隊の命を賭けた奮戦に対し、稲葉の小
隊は防戦した。
 大谷隊の将兵がうなる。
「ひるむな。突っ込め」
 稲葉が頃合いを見て合図した。
「さがれ、退却」
 稲葉の小隊は後込みしながら逃げる。それ
に勢いづいた大谷隊は一斉に追いすがった。 
その頃、松野の別部隊は森の木々に隠れて大
谷隊の背後に回りこもうとしていた。
 稲葉の小隊が引き下がったのを受けて、杉
原の小隊が押し出す。それを迎え撃つ大谷隊。
 しばらくすると杉原の小隊も弱腰で下がっ
ていく。その様子を聞いた吉継は秀秋の哀れ
を感じた。
(兵の数に頼って正面攻撃をするなど、秀秋
はやはり未熟者であったか)
 岩見の小隊も反撃に加わるが劣勢のまま退
く。それに代わって平岡の小隊が突っ込んで
いった。そして秀秋も後に続いて攻めた。こ
の時、秀秋は面頬をあえて着けなかった。自
分の表情を見てこれが策略だと大谷隊の誰か
に気づいてほしいと思ったからだ。しかし死
にもの狂いの大谷隊の誰一人として策略に感
づく者はいなかった。
 小早川隊の攻撃の仕方に家康は一喜一憂し
た。
「出陣したはいいが、何じゃあれは。なぜ総
攻撃せんのじゃ。あーあ、押されておるでは
ないか。秀秋に期待したわしが愚かじゃった
か」
 小早川隊は一方的に大谷隊に追い回され始
めた。それでもなお大谷隊は小早川隊を攻め
続け、赤座、小川、朽木、脇坂の部隊が背後
になっていることに気づかなかった。
 秀秋は赤座の方に目をやった。
 今まで逃げ腰だった小早川隊が態勢を変え、
横に整列して一枚岩のように踏みとどまった。
その一瞬、時が止まったように静寂に包まれ、
大谷隊は凍りついたように動かなくなった。
 少しの間があって湯浅五郎の「あっ」とい
う声に吉継は異変を感じた。
「何があった」
 この時、赤座は小早川隊の動きに状況がの
みこめ叫んでいた。
「今だ。大谷を攻めよ」
 それに続いて小川、朽木、脇坂の部隊も大
谷隊の背後に襲いかかった。
 吉継は何が起こっているのか、まだ把握で
きなかった。
「何だ」
 大谷隊は背後から崩れるように消滅してい
く。
 秀秋は複雑な気持ちで吉継を見ていた。そ
して情けを断ち切るため面頬を着け、側にい
た従者から槍を受け取った。その槍を高く掲
げて合図をだし、全部隊を大谷隊にぶつけた。
 吉継の乗った御輿は混乱の中から湯浅五郎
の先導できりぬけるのがやっとだった。
「負けたのか。秀秋、どんな手を使った」
 吉継は負けた悔しさよりも秀秋の戦いぶり
に心を揺さぶられた。
(じかに見たかったのぅ)
 そう悔やみながら逃れた吉継は御輿から降
りると自刃して果てた。