関ヶ原の合戦を演出した小早川秀秋 -9ページ目

【小説:小早川秀秋】無血入城

 西軍側の松尾山城には、すでに西軍の伊藤
盛正が布陣して待機していた。そこへ突然、
秀秋の部隊、兵一万五千人がなだれ込み、慌
てる伊藤を無視して布陣の準備を始めた。こ
の時、伊藤はまだ秀秋が西軍だと錯覚してい
た。
 稲葉正成があ然としている伊藤に近づいた。
「われら兵多勢により、適当な布陣場所はこ
こしかない。伊藤殿にはお引取り願います」
 伊藤は怒りと屈辱に身体が震えた。
「こ、これは宇喜多殿、石田殿は承知のこと
か」
 稲葉は無視するように布陣の様子を見まわっ
た。
 伊藤が混乱している間にも、すでに準備は
整いつつあり、なすすべもなく引き下がるし
かなかった。
 このあっけない無血入城により秀秋は東軍
として一番手柄を立て、西軍の鶴翼の陣の一
角を崩し、南宮山の毛利秀元らの部隊をけん
制して東軍を攻撃できない状態とした。これ
で東軍は秀吉から東の統治を任された徳川家
と西の統治を任された毛利家の連合軍が三成
にそそのかされて集まった反乱軍を討伐する
という大義名分を与える効果もあった。
 秀秋が松尾山城内を見回ると兵糧や大砲、
火箭なども準備され、いざとなったら籠城す
る構えであったことをうかがわせていた。
(さすが三成、手抜かりがない。しかし少数
の兵に守らせていたとは……。味方する者が
少なすぎる)
 戦は兵の数で勝敗が決まるわけではないが、
豊臣恩顧の諸大名が家康に味方していること
からも西軍の結束力のなさは明らかで致命的
な欠陥だった。
 秀秋の将兵はこれで戦わずに生きて家族の
もとに帰れると狂喜し歓声を上げた。後は東
軍の勝利を待つだけとなった。
 桃配山に布陣した家康は秀秋の鮮やかな手
並みに感嘆し、戦わずして勝利を得たことに
安堵して言った。
「おお、これは。我らはまるで尾をなびかせ、
翼を広げた鳳凰の陣。これで勝負あった。秀
秋殿の一番手柄じゃ。さすが藤原惺窩の愛弟
子、兵法の真髄をみた思いじゃ。わしの家臣
にもあのような者がおればのう」
 松尾山のふもとに布陣していた西軍の大谷
吉継は側にいた湯浅五郎から秀秋が松尾山城
に布陣したと聞き複雑な思いだった。
 吉継は秀吉の小姓となっていた頃、秀秋が
養子としてやって来た時のことを鮮明に覚え
ていた。
 秀秋が成長するとまるで年の離れた兄弟の
ように読み書きや剣術などを教え、鷹狩りに
も連れ出して遊んだりした。どれほど成長し
たのか今は見えなかった。その秀秋と戦うこ
とになったのも運命と心を切りかえた。そし
て部隊の一部を松尾山に向けて警戒させた。
 三成は病で来れないはずの秀秋が松尾山に
布陣したとの知らせに耳を疑った。その三成
と秀秋の関係も吉継と同じようなもので兄弟
同然だった。
 三成にとって次のない大戦を前に秀秋を含
めた毛利一族が東軍に味方するような布陣を
したことで計画が大きく狂った。しかし三成
はまだあきらめたわけではなかった。
(秀秋が松尾山城に入城したのは何か策があっ
てのこと。伏見城攻めでも存分に戦ってくれ
たではないか。この期に及んで家康に味方す
ることなど絶対にない。家康にしても豊臣の
血族に助けられたとあっては秀頼様を討つこ
とはできまい。……そうか、秀秋はどちらが
勝つにしても秀頼様をお守りできると考えて
の布陣か)
 そして三成はとんでもない行動に出た。

【小説:小早川秀秋】アダムス

 慶長五年(一六〇〇年)九月十四日
 曇り空からやがて雨が降り始めた。
 この日が来るまで、各地で小規模な戦いが
あり、家康と三成の戦術の探りあいが続いた。
そのため諸大名の部隊は再三移動させられ、
なかなか対峙する場所が定まらなかった。
 圧倒的に優勢な状況にあった家康でさえ諸
大名の誰がどちらに味方するのか計りかねて
いた。表向きでは味方すると言っていても、
本心は実際に戦闘が始まってみないと誰にも
分からない。それを証拠づけるように大谷吉
継が寝返ったことが分かり、家康をさらに疑
い深くした。この影響で加藤清正、伊達政宗、
前田利長、黒田孝高といった有能な諸大名を
主戦場から遠ざけてしまった。それでも家康
と三男、秀忠の部隊をあわせただけで兵六万
八千人にのぼり、西軍の総大将、宇喜多秀家
に味方する諸大名の兵数を全て足しても兵六
万六千人にしかならず、徳川家だけで十分戦
えた。その上、家康には大砲という最強の武
器とイギリス人のアダムスを軍事顧問に迎え
たことで他の異国人が味方に加わり、多国籍
軍の様相をていしていた。
 アダムスは日本の戦をつぶさに見て、その
弱点を本国、イギリスに逐一報告するつもり
でいた。そうとも知らない家康は異国人らに
日本の華々しい戦を見せつけようと考え、そ
れにふさわしい戦場として関ヶ原を選び、大
砲を移動させていた。
 どうしても大砲の移動は大掛かりになる。
そのため三成は家康の動きがすぐに分かった。
そして常に大砲がどこにあるかを調べさせて
いた。
 吉継によると漂着した船、リーフデ号から
家康が手に入れた大砲は十九門でそのうち三
門は家康の三男、秀忠が信濃・上田城主、真
田昌幸との戦いのため運んでいた。残りの十
六門はすでに関ヶ原に運ばれ桃配山のふもと
の伊勢街道のあたりに並べられ、木々で隠さ
れたが、その隠している様子が三成に報告さ
れた。そこで三成はすぐに地形を調べ、松尾
山にあった古城を西軍の伊藤盛正らにより改
修していた。この松尾山城は過去、浅井長政
が築城した後、織田信長の近江侵攻で開城し
た。そして近江平定後に廃城となっていた。
三成はこの城に毛利輝元を入城させるつもり
だった。ところが輝元は大坂城から動こうと
しない。
 三成にとってこれが大きな誤算となった。
 やがて各部隊は関ヶ原へと集結した。
 天候は霧雨から豪雨に変わり、西風が吹き
始めていた。
 東軍は桃配山に本陣を置いた徳川家康を中
心としてその前後を中山道沿いに各部隊がま
るで伸びきった龍のように布陣していた。あ
とは秀忠が到着して家康の本陣の側に配置す
れば魚鱗の陣となる。これに対峙する山沿い
に西軍は総大将の宇喜多秀家を中心とした諸
大名が東軍の大砲の射程距離に入らないよう
に横並びの鶴翼の陣で布陣した。
 ところが毛利輝元の名代としてやって来た
はずの輝元の養子、秀元と吉川広家の部隊が
東軍側にある南宮山に布陣した。これは広家
が家康と内通し、何も知らない秀元に南宮山
は家康を側面から攻撃できる場所と説明して
誘導したことによるものだった。
 家康は輝元が大阪城から動かず秀元と広家
が南宮山に布陣して攻撃してくるそぶりをみ
せないことで毛利一族が味方についたと確信
した。しかし警戒を怠ったわけではなく、ま
だ来ていない小早川秀秋がどう動くのかを見
定める必要があった。
 三成は毛利一族がどちらに味方するのか分
からなくなっていた。南宮山の秀元には安国
寺恵瓊がつき、好機とみれば家康を背後から
攻撃してくれるものと期待した。しかし東軍
は毛利の部隊を敵とみていれば布陣を変える
か、すでに攻撃していてもおかしくないのに
そうした動きはいっこうにない。また秀秋は
病と言って来る気配もない。明らかに西軍か
ら距離をおいている状況だが、敵になったと
はどうしても思いたくなかった。

【小説:小早川秀秋】決戦の地

 家康が伏見城落城の様子を聞くとがく然と
した。それは島津義弘の裏切りと秀秋に送り
込んだ浪人が秀秋に従って行動していること
だった。
(なぜだ。圧倒的に優勢なわしを義弘はなぜ
裏切ったのだ。それにあの小僧。どこにわし
の送り込んだ浪人を手なずける力があるとい
うのだ)
 家康は疑心暗鬼におちいり、秀吉に仕えて
いた諸大名を信じられなくなっていった。
 伏見城が落城した後、秀秋はすぐに家康に
味方する黒田長政を通じて家康に伏見城攻め
のことを謝罪し、病気療養を理由に謹慎した。
 家康に謝罪したのは、自分がただの小僧で
はなく戦いでの影響力があることを印象づけ
るためだった。
 秀秋の脳裏にいつかの「秀秋殿に助けても
らうようでは、わしも隠居せねばならんのぅ」
という言葉が蘇った。
 謹慎している秀秋は釣りや鷹狩りなどをし
て過ごし病気療養は偽りだった。
 秀秋が家臣たちと一緒に釣りをして楽しん
でいると、そこに別の家臣が書状を持ってやっ
て来た。その書状は三成からのもので、もう
じき始まる戦に加わり、大垣城に入るように
との要請だった。その後も三成から再三、出
兵要請があったが秀秋は応じなかった。
 秀秋は家康の反応をうかがっていたが、家
康からは秀秋に何の接触もなかった。しかし
秀秋が三成の要請を固く断っていると報告を
受けた家康は秀秋に使者を送り、出兵要請を
持ち掛け探りを入れてくるようになった。こ
のことで家康が秀秋の兵一万人を超える部隊
を無視できなくなっていることが分かった。
しかし秀秋はすぐには応じなかった。
 秀秋はこうして家康をじらすことで、どれ
だけ評価しているかを知ろうとしたのだ。
 家康はなかなか言うことを聞かない秀秋に
業を煮やしたが再度使者を送り、東軍が勝っ
た時には備前と美作を封ずると言ってきた。
 それでも秀秋はしばらくのらりくらりと受
け流し、ようやく使者に家康の出兵要請を受
け入れると伝えた。そして稲葉に戦の準備を
するように命じた。その日から秀秋は巻狩り
を装って部隊の軍事演習を行うようになった。
 日の照りつける中、陣形を確認して騎馬隊
と足軽が一体となって行動するように何度も
走らせた。
 夜は草むらに這い、索敵の訓練を繰り返し
た。
 軍事演習の合間には巻狩りで獲ってきたイ
ノシシやウサギなどで栄養をつけ、交替で休
息した。
 秀秋の部隊は豊臣家、小早川家、家康に送
り込まれた浪人たちの混成部隊だったので、
まとめるのは難しかった。
 皆、年齢も体力も考え方も全て違う。だか
ら秀秋は思想を一つに統一しようとは考えな
かった。
 対立が起きるのは違いを認めず自分の思想
や知識を押し付けようとするからだ。この時
代は世界が平だと思われていたものが丸いと
気づき始めていた。しかし世界は人が誕生す
る前から丸い。人の思想や知識で変わったわ
けではない。そんないい加減な人の思想や知
識などを統一するのは調和を乱し発展を遅ら
せてしまうだけだ。
 宗教にしても宗派によっては考え方が違う。
もし統一できるのなら世界は一つの宗教でい
いはずだ。秀秋の師、藤原惺窩も仏教に疑問
を感じて儒学にその答えを見つけようとして
いた。
 儒学では人の思想や知識の及ばない自然を
手本としていた。
 家臣一人一人に特徴がある。秀秋はその特
徴を生かせる役割に就かせただけで他は干渉
しなかった。どういう思想をもっているか好
きか嫌いかは関係ない。
 例えば巻狩りでは、走って獲物を追い回す
者、待ち伏せする者、獲った獲物を料理する
者、中には食べるだけの者もいたがその者は
巻狩りという仕事には役割がなかっただけで、
別の仕事で役割を見つければいいことだった。
これを皆、同じ役割にしたり役割を無理やり
おしつけたりするとどうなるか。そのことに
気づけば対立はなくなる。こうして秀秋は惺
窩から学んだ学問を実践で使えるか試そうと
していた。するとそこには豊臣家、小早川家、
家康に送り込まれた浪人の区別はなく、秀秋
と共に戦う一糸乱れない部隊が誕生した。
 一方、家康はあれだけ出兵要請を拒否して
いた秀秋が、今度はすんなりと受け入れたこ
とに疑心暗鬼になっていた。この前は三成の
要請ですぐに伏見城攻めをやり、今度は自分
の要請をじらしたとはいえ簡単に引き受ける。
(あの小僧は何を考えとるのじゃ)
 悪知恵を使う者は他人も悪知恵を使うと思
い込んでしまう。それが家康を慎重にさせ、
今日まで天下を取れなくし、その反面、生き
延びさせもしていた。
 三成は秀秋が家康の出兵要請を受けたこと
を知らなかった。その三成も秀秋を諦めきれ
ないでいた。
 三成は毛利輝元を西軍の総大将にしたこと
で毛利家、吉川家、小早川家の毛利一族を取
り込んだと思っていた。しかし秀秋の病気療
養が本当なのか疑いを持ち始めていた。
 家康と三成は秀秋の真意をつかめないまま
決戦の地へ向かうことになった。