【あの堺屋太一先生もこのサイトを参照?】 | 関ヶ原の合戦を演出した小早川秀秋

【あの堺屋太一先生もこのサイトを参照?】

 2010年11月28日付の中国新聞(多数の
地方新聞で同時連載)に掲載の連載小説「三
人の二代目」(堺屋太一作)・442・「天下統一
ー仕上げの工程(3)」の抜粋

 それにもう一つ、千利休が「名器」の折り紙を
付けた茶道具の販売益金があった。
 秀吉の御機嫌を取りたい大名や豪商は、競っ
て利休ブランドの茶道具を買い入れた。もとは
といえば二束三文の今焼き茶碗や竹べらを何
百両で売るのだから利益は大きい。その利益
の七、八割は、利休の保護者の大和大納言秀
長の懐に入る仕掛けになっている。
 秀長は、このブランド商法で得た金銀の一部
を、秀吉の金賦りのために提供した。

 今まで千利休といえば、茶の湯のことばかり
で、その本当の役割を指摘した小説等はなかっ
た。
 私がそのことを書いて訴えたことが、ようやく
プロの小説家にも認識されるようになったよう
だ。

 私が上記より以前に書いていた「茶頭宗易」

 宗易は商いで国を治めるとまで言われた堺
商人の代表として信長に召抱えられていた。
その宗易は道楽の一つだった茶の湯を改革し、
わび茶を完成させた茶人として知られている
が、どこにでもある材料で茶器を作り、それを
金銀よりも価値のある宝物に高めた錬金術
師のような側面があった。
 信長は宗易の考えを実行することで、金銀
を手に入れるのが難しい不利な領地にありな
がら、どこでも誰にでも作れる茶器をあたか
も価値のあるものに見せかけ流通させること
で金銀に換え、兵糧や鉄砲の調達にあてたり、
茶器そのものを戦で手柄を上げた者に褒美と
して与えたりすることで軍資金を減らさず、増
やすことに成功した。これが強大な隣国に囲
まれていた尾張の空け者、信長を天下統一
にまで導いた原動力の一つだった。
 信長は宗易のこうした才能に目をつけ、茶
頭にして茶の湯を広めさせたのだ。そして信
長自身も高価な茶器を買いあさり、そのこと
を「名器狩り」と揶揄(やゆ)されたが、これで
茶の湯が注目され、公家や商人も加わって
茶器の値段は高騰した。こうして信長は茶の
湯で莫大な利益を得ると同時に公家との交流
を深め、潤った堺商人から支持され鉄砲な
どを買い集めることができたのだ。
 秀吉も宗易を召抱えることで、公家と堺商
人をつなぎとめて関係を深めることができた。